海軍工作学校跡の碑

軍事遺物
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昭和16年4月、工作術教育のために、久里浜の地に海軍工作学校が設立された。敷地面積28万坪というその広大な跡地は、現在、小・中・高校や図書館、行政センター、市営住宅などの文教地区に変貌している。そのほぼ中央部に位置する久里浜公園の一角に昭和52年3月に建立された。
書は終戦時の学校長 美原泰三少将。碑裏面には、碑文と協賛者の氏名が刻まれ、台座下には戦死した卒業生の名簿が収められている。
碑高194cm、幅103.5cm、厚さ17.5cm、台石75cm
所在:久里浜公園(横須賀市)

(刻字)
碑正面:
「海軍工作学校跡  海軍少将 美原泰三 謹書」
裏面:
「建設之趣旨 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分野であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立まで発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し、大きな成果をあげました。
この学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戰争に殉し尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戰場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戰後復員した者たちは、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖國復興に大きな役割を果たし、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戰歿英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が當時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 發起人一同 謹書 野原朴
 衣笠栄町 (有)田中石材工業刻」

⇒記念碑の建立から46年が経過した令和5年3月、碑の脇に解説板が設置された。 (解説板文章)
海軍工作学校記念碑について
戦前この地に海軍工作学校がありました。その戦後卒業生や教職員達が中心となって「青春の情熱を燃やした思い出の地に何か記念となるものを残したい。」との想いから記念碑を建立し、昭和52年(1977年)5月22日にこの碑の前で除幕式を行いました。
海軍工作学校は昭和15年(1940年)、22万uの広大な敷地に開設されました。その教育内容は、1.士官に対する教育(工作科指揮官としての高等教育並びに研究)2.下士官兵に対する練習生教育(イ)工術練習生(金属工業)は機械、鍛治、仕上、板金、銅工、鋳造、溶接等の専門教育(ロ)工術練習生(木具専修)は一般木工業の他潜水術を教育(ハ)特修科工術練習生は更に高度な技術教育を行います。これらの技術教育を受けた者は艦船部隊の要員として配置され、その技術を発揮し、兵器機関の修理或いは損傷艦艇の応急修理や陸戦隊の工作隊員として活躍しました。なかでも水中溶接の技術や特殊潜航艇「海竜」の製造など当時としては画期的な発明をした事は余り知られていません。
終戦までの海軍工作学校の教育を受けた生徒は5万人で戦没者数は5,118名、その英霊は名簿としてこの記念碑に納められています。卒業生達は習得した技術をそれぞれの分野で発揮して工場経営に、あるいは技術者として戦後の復興に大きな功績を挙げています。
現在、海軍工作学校の跡地は横須賀市立総合高校や久里浜小学校、明浜小学校、久里浜行政センター、南図書館、南体育館、市営住宅等々に転用されています。
参考文献 海軍工作学校史 昭和59年(1984年)6月発行
令和5年(2023年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会