洲崎第二砲台

<沿革>館山市
・大正13年10月:起工
・大正14年9月:備砲据付
・昭和2年3月:竣工
・昭和4年12月:第2観測所竣工、昭和6年3月88式海岸射撃具据付
・昭和5年12月:第1観測所竣工、昭和10年2月88式海岸射撃具据付
・昭和18年3月:除籍
・7年式30糎長榴弾砲四門。昭和12年重砲校に1門、昭和13年対ソ戦に向けて関東軍へ3門交付された。後、重砲校の一門も関東軍へ送られた模様。

<構造>
要塞砲の主砲であった28糎榴弾砲を上回る性能を求めて設計された30糎長榴弾砲が設置された砲台。
もともと西浦砲台に設置する計画であったが地盤不良により中止となったため本砲台に設置されたようである(三浦半島城郭史より)。
砲座は南北に一直線に並び、首線は西。砲座間に横墻は設けられていない。砲座の両端には地下砲側庫が築かれている。
北側砲側庫は2室が並んだ横穴式で、南側は横穴式の単独庫と隧道内に直角に掘り込まれたものと2カ所築かれている。
更に南手には建物基礎部分が数カ所残っていることから補助建物が数棟建設されていたようである。 また、北側には炸薬填実所と言われている鉄筋コンクリートカマボコ型構造物が残されている。 観測所は、砲台西方の御手洗山の第1観測所、その東南の前山に第2観測所が設けられ、いずれも88式海岸射撃具が据えられた。遺構から見るにコンクリート製の半地下式であったようだ。
なお、昭和2年に砲台の南方谷戸の奥に洲崎弾薬支庫が建設された。湿気を防ぐため外庫、内庫の2重構造になっていたが、現在、内庫は存在していない。 また、最寄りの波左間海岸には弾薬、資材搬入用に繋船場が造られた。

<現状>
山中という場所柄、保存状態は比較的良好である。
砲台入口の門柱2基が現存しており、4基あった砲座も戦後破壊されたが、竹藪の中に左端の1基のみが残され、往時を偲ぶことができる。 また、砲側庫は3箇所全て現存している。
炸薬填実場と言われているコンクリート構造物は、あまりに頑丈で破壊できないためその上に民家が建っているということで、ネットなどでよく紹介されている。 谷戸奥の巨大な弾薬支庫も残現存している。
当時は構築物のコンクリート壁面に迷彩模様が施されていたと思われるが、現在は隧道の北側入口部分にのみ見ることができる。
敷地全体に水路が整備されており、軍道上には頑丈なコンクリートアーチ橋が3基残されている。戦車など重量物が通ることを想定していたものと思われる。
現在、砲台敷地の東側で残土処分場の工事が進んでいるが、砲台遺構に影響があるのかどうか心配である。
第1観測所、第2観測所とも山頂部分に位置しているいずれも破壊され、廃墟となって残っている。第1観測所回りには何故か塹壕が巡らされている。第2観測所では南方の平場に何かの施設跡があるが、発電施設ではないだろうか。

(砲座、砲側庫)

7年式30糎長榴弾砲第4砲座

第4砲座に隣接する砲側庫正面

同左。前壁前面

砲側庫内部。レンガ造であり壁厚40p。
室内は間口3m、奥行9.5m、高さ2.35m。

(隧道砲側庫)

隧道入口。わずかに迷彩模様が残る

隧道内部。砲側庫入口が並んでいる

砲側庫内部

砲側庫内部。2室とも同形状で、間隔
約5m。
室内は間口3m、奥行10m、高さ2.75m。

隧道反対側

(その他遺構)

コンクリート擁壁

建物基礎跡

建物基礎跡

コンクリートアーチ橋。一番目の橋。

第2の橋

第3の橋

炸薬填実所。防湿アスファルトが残る

同左。側面の開口部から内部を写す

左門柱。36p角。

右門柱

(観測所)

第1観測所跡。部屋の形状は残る

同左。防湿アスファルトが残る

周囲には塹壕が巡っている

廃墟レベルで書起した平面図。
第1も第2も同形状

第2観測所跡

同左

第2観測所南方にある施設跡

使途不明の構造物。隣接して2つある

洲崎灯台から望む御手洗山

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