兵器(遊就館)

軍事遺物

遊就館は、明治12年に、靖国神社境内に、神霊を慰安し威徳を欽仰するために掲額並びに武器陳列場を新設することが許可されたことで、明治14年にイタリアの古城を模した建物が落成し、翌年開館した。
目的は、明治43年の勅令で「武器の沿革を知るべき物件を収集保存し、軍事上の参考に供する所とす。遊就館は公衆の観覧に供することを得る」とされた。その後、関東大震災で被災し、昭和6年に再建された。これが現在の建物である。
昭和9年には、付属施設として「国防館」が開館したことに伴い、昭和10年10月の遊就館令では、「戦役・事変に関する記念品及び武器の沿革を知るべき物件を収集保存して軍事上の参考に供しかつ国防精神の作与及び軍事知識の増進に資するため之を公衆の観覧に供する所とする」と積極的に国民を啓発・啓蒙する施設に変化している。
戦後閉鎖され、富国生命に貸し出された。しかし、昭和36年に旧国防館であった靖国会館を宝物遺品館として復活、旧遊就館の建物改修を行い、昭和60年に改めて遊就館として開館した。
所在:靖国神社(千代田区)

国防館。昭和9年4月23日に開館。陸軍の最新科学に基づく現代兵器の粋を集めて展示していた。
内部は10室と屋上からなり、「1室:医療、衛生、獣医材料 2室:機上よりする爆撃 3室:科学兵器 4室:室内射撃及現代戦ジオラマ 5室:大型兵器と無線電話 6室:国防献品、恤兵品等 7室:防空 8室:音源標定、光線電話及戦車の無線操縦 9室:弾丸の製造工程及航空機用固定機関銃の発射連動装置 10室:講堂 屋上:距離測定等」と充実した内容であった。特徴は、単なる実物展示だけではなく、実際に仕組や構造、使い方がわかるような工夫が施され、また、実際に体験できるものも多く、体験型の博物館であった。
例えば、防毒面を装着してガス室内でその効果を体験する防毒実験や模型戦車の無線操縦、機上からの爆弾投下体験、空気銃による室内射撃体験、戦場ジオラマにおける模型兵器の運転、測遠機や砲台鏡を使った測距体験など、数多くの体験展示を用意していた。開館の昭和9年度は約17万人の入館者を数えた。戦後は、靖国会館として再出発し、現在は、参拝者休憩所と偕行文庫になっている。

<鋼製三十封度(ポンド)船用加農砲>
安政元年(一、八五四)伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦デイアナ号は、大地震の津波により挫礁した。乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した 後露国政府はデイアナ号の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。本砲はその一門である 
口径 百六十粍米 全長 二、五七〇粍米

<青銅百五十封度(ポンド)陸用加農砲>
この砲は嘉永二年(一、八四九)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が施錠を施した。
口径 二九〇粍米 全長 四、二二〇粍米

<青銅八十封度(ポンド)陸用加農砲>
この砲は安政元年(一、八五四)、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。
口径 二五〇粍米 全長 三、八三〇粍米

<芝辻砲>
材質 鍛鉄 
全長 3.13メートル 
口径 9.3センチ 
銘記 「慶長十六年摂州住芝辻理右衛門助延作 花押」
慶長十四年徳川家康が堺の銃工芝辻理右衛門に命じて鍛造させ、慶長十六年に完成させた大砲で、大坂冬の陣に使用したと伝えられる。長らく鍛造か鋳造かの議論がなされたが、昭和五十六年産業考古学会による非破壊調査により鍛造であることがあきらかとなった。
明治17年9月14日 砲兵第一方面より遊就館に移管

<仏郎機砲(ふらんきほう)>
材質 青銅 
全長 2.88メートル 
口径 9.5センチ 
銘記 「壱貫九拾目」」
16世紀のヨーロッパで盛んに用いられた後装式砲。砲身上面の装飾からインドのゴアで鋳造されたものとされる。天正七年頃に大友宗麟がポルトガルより入手し、豊後の臼杵城に配備していたが、天正十四年に島津義久軍が豊後に侵入した時に鹵獲したもので、いわゆる「国崩し」と呼ばれる大砲である。
明治14年5月23日 砲兵第一方面より遊就館に移管

<四一式山砲>
日露戦争が終わって明治四十一(一九〇八)年に制式化された砲身後座式の国産の山砲。
分解して馬に積載するが人力でも運搬が可能であり山岳地や障害の多い地域で使うのに便利であった。 砲兵部隊のほか、歩兵部隊の「連隊砲」として広く用いられた。
ここに展示の砲は大東亜戦争において宇都宮の野砲兵第十四連隊(基二八〇七部隊)が東部ニューギニアの戦闘で使用した歴戦の火砲で、昭和五十一(一九六七)年四月、基〇七会戦友会から靖国神社に奉納された。
口径 75mm 
砲身長 130p 
重量 540s 
最大射程 6,300m 
発射速度 10発/分 
弾種 榴弾、榴散弾、鉄製榴弾

<八九式十五糎加農砲>
昭和四(皇紀二五八九)年に制式化された火砲で開脚式装輪砲架を持ち、長射程、大威力を誇った。 移動には砲身、砲架をそれぞれ八トン牽引車で運搬した。 この砲は沖縄の戦闘において独立重砲兵第百大隊(横須賀で編成)が使用し、首里附近の陣地から嘉手納の飛行場を制圧する等、軍砲兵の骨幹として活躍した。砲身を抉り脚を穿った多数の弾痕は激戦の跡を生々しく物語っている。
戦後洞窟陣地から発掘され、沖縄の米軍博物館に、復帰後は那覇の陸上自衛隊で展示されていた。 日本に現存する唯一の十五加であり、重砲兵の記念碑として平成五年四月、重砲十五加顕彰奉納会から奉納されたものである。
口径 149.1mm 
砲身長 472.5p 
砲列砲車重量 10,422s 
砲弾重量 40.2s 
発射速度 1〜2発/分 
最大射程 18,100m

<九六式十五糎榴弾砲>
この火砲は野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属し、沖縄防衛戦に奮戦したが、糸満市真壁の陣地において昭和二十年六月二十三日全弾を撃ち尽して中隊は砲とその運命を共にした。 この榴弾砲は、六トン牽引車による迅速な移動と強力な火砲をもって機械化砲兵と呼ばれた。 連隊は昭和十四年のノモンハン事件でソ軍砲兵と戦火を交えた後、東満洲の黒河省神武屯で国境警備に任じた。大東亜戦争勃発するや比島に進出し、バターン・コレヒドールの戦闘に偉功を立て、再び神武屯に帰還した。十九年沖縄に進出し翌二十年六月玉砕した。
戦後米軍に回収され沖縄の在郷軍人クラブに展示されていたが、関係者の熱意と米国側の好意により昭和四十一年五月二十九日、英霊の奉慰のため靖国神社に奉納された。

口径 149.1mm 
砲身長 352.3p 
砲重量 4,140s 
発射速度 45発/時 
最大射程 11,900m

<八八式七・五糎野戦高射砲>
折畳式の砲床と車輪を持つ移動式の高射砲で、陸軍の野戦防空の主力火器として活躍した。この高射砲は東部ニューギニアのウエワクで野戦防空に活躍した火砲である。 東部ニューギニアでは糧食、弾薬の補給が途絶した中、困苦と病魔を克服して最後まで戦闘を継続した、戦史上稀に見る難戦であった。
昭和四十六(一九七一)年一月、全戦争殉難者慰霊協会が実施した遺骨収集において現地政府の許可を得て持ち帰り、昭和四十七(一九七二)年八月、同協会から靖国神社に奉納された。
口径 75mm 
砲身長 321.2p 
初速 720m/秒 
重量 2,450s 
最大射程 13,800m
最大射高 9,100m

<海軍三年式八糎高角砲>
在来の三インチ艦砲を改良した日本海軍の対空砲で、大東亜戦争中基地防空の主役として、また対艦船用に広く使用された。ここに展示してある高角砲は東部ニューギニアのサラモアにおいて基地防空に活躍した火砲である。
昭和四十四年秋、東部ニューギニア戦友会の遺骨収集において現地政府の許可を得て日本に持ち帰り、昭和四十六(一九七一)年四月、同戦友会から靖国神社に奉納された。
口径 76.2mm 
砲身長 304.8p 
重量 2,300s 
最大射程 7,200m
最大射高 5,400m

<50口径三年式14cm砲:陸奥副砲>
軍艦陸奥装備副砲奉献銘碑
軍艦陸奥は連合艦隊司令長官海軍大将古賀峯一直卒の下に瀬戸内海柱島水道に警戒碇泊中昭和十八年六月八日不慮の爆沈により館長海軍少将三好輝彦外千百に十一名の将兵が悲運にも艦と運命を共に し永久の大義に殉せられた
軍艦陸奥引揚促進期成會は軍艦陸奥引揚の大部を了せる此機を選び引揚たる副砲と共に其の銘碑に殉職者の氏名を刻し之を靖国神社に奉献し其英霊を永へに顕彰することにした
軍艦陸奥はワシントン海軍々縮条約下最後の戦艦てあり其戦力発揮の為全海軍の叡智と心血とを注いて完成した□□□の藝術品であり其乗員も亦誇るを以て二十餘年に亘り祖國の護りに精魂を傾けて献身し名實共に天下第一艦として戰爭抑止の實を発揮した榮光の軍艦である
昭和五十年六月八日
軍艦陸奥引揚促進期成會々長 元軍艦陸奥館長 保科善四郎謹書(花押)

<戦艦「三笠」三十糎主砲弾>

<武蔵主砲弾>
弾長 一九五糎 
重量 一四六〇瓩

<火薬罐(四十一糎砲用)>
火薬罐は、艦載砲の装薬(火薬)を保管・運搬する為の容器である。中には、砲身の内径に合わせて円柱に整形された装薬が、二本収納されていた。
戦艦などに搭載されていた大口径の砲では、薬莢は無く、砲弾と装薬は別々に砲身に装填して発射した。 四十一糎砲は戦艦「長門」、「陸奥」の主砲で、一発の砲弾を発射するには、火薬罐二罐分四本の装薬が必要であった。

<四年式十五糎榴弾砲の砲弾及び薬筒>
この砲弾はサイパン島にて玉砕した野戦重砲兵第九連隊黒木大隊の陣地跡より発見され、祖国に持ち帰られたものである。
薬筒は火砲に装填されたまま発見され、現地人の協力のもと火砲を海中に沈め爆薬により火薬を摘出したので、一部変形している。
昭和五十七年六月十九日 野重九会 奉納

<九二式尖鋭弾及び榴弾>
説明板は無いが、九六式十五糎榴弾砲の前に展示してあることから推測。九二式尖鋭弾(左)、九二式榴弾(右)

<四式二十糎噴進砲>
この砲は硫黄島で玉砕した小笠原兵団(兵団長栗林中将)に配属された噴進砲中隊(長、横山義雄大尉)の装備、四式二十糎噴進砲である。
噴進砲中隊は昭和二十年二月十九日上陸した敵に対し、甚大な損害を与え一時その進行を食い止めた。全弾打ち尽くした後も、鹵獲した銃によって粘り強く持久戦を続け遂に全員玉砕された。 噴進砲は、砲と名付けられているが実は噴進榴弾は自身の固形燃料で飛翔し、しかも自体の推力調節により飛距離の調整ができたので、一般の火砲とくらべて射距離・命中精度は落ちるが、簡単な構造で、運搬・移動が容易であった。
この砲は戦後長期間その戦跡に放置され腐朽寸前にあったあ、硫黄島で玉砕された将兵の慰霊と顕彰の象徴とするため、財団法人偕行社をはじめ各方面の協賛と奉仕により送還・復元され、平成十五年八月十五日靖国神社に奉納された。
4式20糎噴進砲 砲身長 1,923o 砲重量 95s
4式20糎噴進砲弾 全長 1,019m 重量 83.7s 最大速度 秒速175m 最大射程 2,400m
噴進砲中隊 編成 昭和19年6月陸軍野戦砲兵学校 中隊長 横山義雄大尉 隊員 130名 装備 噴進砲46門 噴進砲弾434発

<九二式重機関銃>
九二式重機関銃は、日露戦争後に機関銃の重要性を認識した日本が、独自の開発を進めた陸軍の代表的な重機関銃である。弾丸の発射速度が比較的遅く、銃本体と専用の銃架を含むと50キロもの重さになり、運搬には4人がかりとなった。しかし、命中精度は高く、難点を補って余りある働きで、支那事変、大東亜戦争に活躍し、前線の歩兵を援護する心強い兵器だった。

<九六式二十五粍連装機銃>
九六式二十五粍機銃はフランスのホチキス社が設計したのを昭和十一年に日本が国産化したものである。陸海軍の艦船や陸上基地など殆ど全てに対空防御用として使用された。ここに展示のものは昭和四十三年、ブーゲンビル島・ファウロ島遺骨収集団全国派遣団がラバウルの海軍砲空砲台で収集したものである。

<九七式中戦車>
日本陸軍の代表的な戦車である。
展示してある戦車は戦車第九連隊に所属し、昭和十九(一九四四)年四月、満州からサイパンに進出し、太平洋の防波堤として米軍の猛攻を迎え撃ったが七月七日玉砕した。
日本軍の戦車は道路状況の悪い大陸で、歩兵と共に戦い、その前進を妨害する敵の機関銃等を撲滅することを目的として開発されたもので軽量小型であり、米軍のM4戦車との戦いは苦戦を免れなかった。
戦後、連隊の生存者が私費を投じて発掘し故国に持ち帰り、サイパン島戦歿戦友の慰霊と戦車兵団戦歿者慰霊顕彰の象徴として昭和五十(一九七五)年八月十二日、靖国神社に奉納された。
重量 15.0t 全幅 2.33m 全長 5.55m 全高 2.23m 
装甲 前面25mm 側面20o 乗員4名 
武装 九七式57mm戦車砲1門 九七式7.7mm車載機関銃2門 
機関 空冷V型12気筒170馬力 最高速度 38km/h 行動距離 210km

<三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)>
昭和十五年すなわち紀元二六〇〇年に制式採用された「零式艦上戦闘機二型」は、「ゼロ戦」の愛称でも親しまれる。
初陣は昭和十五年九月。中国、重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。 味方に損害なしという空前の戦果をあげ、その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。
ここに展示されている五二型は、初期型より主翼の両端を短く整形されている。そして発動機の栄エンジンに、推力式排気管を採用して速度がかなり向上し、零式戦闘機の中では最も多く生産された。
兵装
プロペラの回転と機銃の発射間隔との同調装置を備えた。96式艦戦以来の97式7.7ミリ機銃(弾倉600発)2挺に加え、99式20ミリ機銃(125発)2挺が、空飛ぶ機銃座としての威力を発揮した。
また、燃料の投下式増設タンク(300リットル)を使用すると、零戦の大きな特徴の一つである航続距離は、初期の二一型で約3000kmを超えた。

<九九式二十粍機銃>
「恵式」後に「九九式」と改称されたこの二十粍固定機銃は、海軍に正式採用された昭和14(1939)年当時では、世界で最も強力な航空用機関砲の一つであった。
ここに展示の二十粍機銃は、零戦二二型に搭載されていた九九式二十粍一号機銃二型改一で、弾丸発射時の初速六百メートル/秒、丸型弾倉には百発を給弾できた。
その後、銃身の延長やベルト給弾の採用など改良が加えられ、終戦まで海軍航空機搭載機銃の主力として活躍した。
この機銃は、平成元(1989)年ニューブリテン島ラバウル在住のジョン・F・ディクソン氏から日野自動車工業株式会社に譲られ、更に同社から平成二年(1990)四月靖国神社に奉納された。

<零式艦上戦闘機の座席>
零戦は機体の重量を軽減するために、各所に軽め穴(丸穴)を開けていたが、座席にもこの軽減策が施された。
また、零戦後期型の座席には、背もたれに救命筏を収納するための張り出しが設けられた。 右側の棒状のものは、座席を昇降(高低調整)するハンドルである。
この座席は、昭和五十六(1981)年、エス・ボングループ代表田中祥一氏がヤップ島から回収し、平成二十八(2016)年四月五日靖国神社に奉納されたものである。

<艦上爆撃機「彗星」>

<特攻機「桜花一一型」>

<特攻モーターボート「震洋」>

<水中特攻兵器「回天」>

<九三式魚雷三型」>
日本海軍が世界に先駆けて開発した「酸素魚雷」。昭和八(皇紀二五九三)年に制式化され「九三式魚雷」と呼ばれ、主に巡洋艦・駆逐艦に搭載された。
従来の魚雷は圧縮空気を用いたので航走中に気泡による「雷跡」が発見されやすかったが、この酸素魚雷は高速で長い射程と強大な爆発力を持ち、しかも「無航跡」であり世界の水準を超えるものであった。
のちに人間魚雷「回天」の動力としてこの魚雷の機関が使用された。
全長 9m 
直径 0.61m 
全重量 490s 
航続距離 36ノット(40,000m) 42ノット(30,000m) 48ノット(22,000m)

<特攻兵器模型>

海軍水中特攻兵器「海龍」

海軍水上特攻兵器「震洋五型」

陸軍水上特攻兵器「〇レ艇」」

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